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昭和50年代のヤンキーと学校生活|暴走族・ツッパリ文化の全貌

 

「あなたの学校は荒れていましたか?」

今ではあまり見かけなくなった“ゴリゴリのヤンキー”たち。

しかし、昭和50年代の中学校では、不良文化が大ブーム。学校はまさに“戦場”のような状態でした。

今回は、そんな昭和ヤンキーたちの生態や、当時の学校のリアルな日常について深掘りしていきます。

 


昭和50年代の学校は“戦場”だった!?

昭和50年代の中学校では、ヤンキーやスケ番が全盛期。

中学校同士の抗争が日常的に繰り広げられ、校内暴力も激化していました。

この頃の不良ブームは、漫画や映画にも影響を与えます。『ビーバップハイスクール』や『今日から俺は!!』のような世界観が、当時のリアルな日常そのものだったのです。

そして、1978年(昭和53年)には、補導された少年少女の数が前年より約2万人も急増。

1983年(昭和58年)には、ついに約31万人という史上最悪の補導数を記録します。

全国には約750以上の暴走族グループが存在し、その構成員は約4万人にも及びました。

学校は荒れに荒れ、毎年のように退学者が続出し、クラスの人数も減っていく一方でした。

 


ヤンキー文化の全盛期

昭和50年代の不良文化は、ファッションやアイテムにも色濃く反映されていました。

 

1. 変形学生服とセカンドバッグ

当時のヤンキーたちは、学ランのホックを外し、中に派手なセーターを見せて着るのが定番。

さらに、学ランの裏には刺繍を入れることも流行りました。

 

卒業式では、先輩から後輩へと“受け継がれる”学生服の儀式が行われる学校もあったとか。

わざと目立つ格好をするのに、目が合うと「何ガンつけてんだよ!」と絡んでくる…という矛盾もまた、ヤンキー文化の特徴です。

 

また、ヤンキーたちは“薄さが命”のセカンドバッグを愛用。

どうやってあんなに薄くしていたのかというと、お湯で皮を柔らかくし、押しつぶす“カバン潰し”という技術があったのです。

 

2. “色”で決まるヤンキーの格

ヤンキー男子のカバンの持ち手部分には、赤や白のテープを巻くのが流行りました。

  • → 喧嘩を売ります
  • → 喧嘩を買います

また、ヤンキー女子は膝に絆創膏を貼ることで「経験済み」だというステータスを示していたと言われています。

 

3. ヤンキーのヘアスタイル

リーゼントやパンチパーマ、アイパーなど、独特なヘアスタイルも不良たちの象徴でした。

ブリーチやヘアカラーは高価だったため、彼らは学校の保健室にある消毒液“オキシドール”を使って髪を脱色していました。

このせいで、保健室のオキシドールが鍵付きのロッカーに保管される学校もあったほど。

 


昭和の学校で起こっていた衝撃エピソード

今では考えられないような出来事が、当時の学校では日常茶飯事でした。

  • 生徒が窓ガラスを次々に割りまくる
  • 盗んだバイクで校内を爆走
  • 教室の壁を蹴り続けて、隣のクラスまで貫通
  • 停車中の車を襲い、運転手を引きずり出して車を奪う
  • 授業中に教室で花火をする or 焼肉をする
  • 教師が生徒から暴行を受け、骨折する
  • 教師が生徒を刺すという事件まで発生

また、教師が生徒に土下座させられたり、職員室の机の上を生徒が走り回るなんてこともあったとか。

さらに、当時は警察の介入が少なく、校内暴力や犯罪行為も“学校の問題”として処理されることが多かったため、不良たちはやりたい放題だったのです。

 


まとめ:昭和ヤンキー文化は今や“伝説”に

今振り返ると、昭和50年代の学校は、まさに“戦場”のような環境でした。

しかし、当時のヤンキーたちは単なる不良ではなく、独自のルールや美学を持ち、おしゃれにもこだわっていた一面があります。

現在では考えられない昭和ヤンキー文化ですが、その熱量の高さと影響力の大きさは、今もなお語り継がれています。

あなたの周りにも、当時の“ヤンキー文化”を知る人がいるかもしれませんね。

ぜひ、昭和ヤンキーの思い出を聞いてみてください!